

写真家 ドロテア・ラングが教えてくれた
飢えと人間性の見方
"Dorothea Lange taught America to see hunger and humanity" #nipomo http://t.co/jMekxDUiYS @mgodoyh @NPRFood pic.twitter.com/QOXujPCxni
— v. drew (@TheBlakesTwit) May 27, 2015
写真1:テキサス、オクラホマ、ミズーリ、アーカンソー州およびメキシコからのニンジン収穫労働者。「僕たちは全部の州から来ている、どうやってもこの畑で1ドルも稼げない。朝の7時から正午まで働いて、平均して35セントにしかならない。」〜1937年2月、カリフォルニア州(ドロテア・ラング/ライブラリー・オヴ・コングレス)
ドキュメンタリー写真家 ドロテア・ラングには好きな言葉があった:「カメラは、カメラ無しでの見方を学ぶための道具だ」
1895年のこの日(5月27日)に誕生したラング以上に大恐慌の人の苦しみを明らかにした人物はいないだろう。彼女の写真は怯む事無くーしかし深く人情味溢れたー居場所を失った農家の人々、季節労務者、小作人などアメリカの農業経済の底辺にいる人々の苦しみが展開された1930年代を通して見せてくれた。写真2:ラングの伝説的写真、度々「季節労務者の母」と呼ばれるフローレンス・オーウェンス・トンプソンの一枚。この写真は、1936年、カリフォルニア州ニポモの困窮したマメの収穫労働者のキャンプで撮影された。(ドロテア・ラング/ライブラリー・オヴ・コングレス)
ラングは1930年代、ファーム・セキュリティ・アドミニストレーションで働き、アメリカ全土の田舎の貧困と政府の救済努力を記録した。
彼女の最も有名は写真は、度々「季節労務者の母」として知られている。職にあぶれたマメの収穫労働者で一杯のカリフォルニア州ニポモのキャンプ場で1936年に撮影された:写真に写っているのは7人の子供の内の2人を両脇に従え、3人目の麻布に包まれた赤ちゃんを膝の上で休ませている貧しい農業労務者、フローレンス・オーウェンス・トンプソンだ。
凍てつくような雨がマメをダメにした。トンプソンと子どもたちは「周辺の農場にあった凍ってしまった野菜と、子どもたちが殺した鳥で飢えを凌いでいた」と、ラングは書き残している。「食べ物を買うために、車のタイヤを売り払ったばかりだった。」
この出口のない困窮を感じ取るのに、ラングのメモを読む必要は無いだろう。写真が撮影された時に32歳だったトンプソンの顔に、年齢以上に刻まれた苦労を見て取ることができる。写真3:1933年の冬、サンフランシスコでパンを受け取るための列に並んだ男性。
ドロテア・ラング/ナショナル・アーカイヴ/ゲッティ・イメージズ
貧困者の苦しみを記録し始める前、ラングはサンフランシスコの富裕層を対称にした肖像写真家だった。結果、彼女は不毛の土地の映像よりも個々人の映像の方がずっと強烈な情緒的影響を産み出すことを熟知していた、と2010年にラングの伝記作家、リンダ・ゴードンはNPRに語っていた。不運な人たちを撮影したラングの初期の作品には、サンフランシスコのブレッド・ライン(パンの施しを受ける人たちの列)に並ぶお腹を空かした、失業中の人たちの映像が含まれている。
アン・ウィストン・スパーンがラングの大恐慌時代の作品について書いた "Daring To Look" で回想するように、ラングは1935年初期にカリフォルニア州のインペリアル・ヴァレーへ出向き、レンズを農業労務者に向けた。写真4:「メロン畑へ出発(メキシコ人労働者)」1935年カリフォルニア州インペリアル・ヴァレー
ドロテア・ラング/ライブラリー・オヴ・コングレス
そこで、ラングは原始的な屋外便所、ごみ捨て場も無し、飲み水も無しの箱や木の枝、木っ端や布で作られたあばら屋に住むメキシコ人、フィリピン人や「白人アメリカ人」の農場労務者の状況を記録し続けたと、スパーンは書いている。ラングのキャプションの一つには、「これらの労務者にカリフォルニアの収穫は依存している」とあった。
その年の後半、インペリアル・ヴァレーからのラングの映像やメモがカリフォルニア州の季節労務者のためのキャンプ助成金へと政府関係者を動かしたとスパーンは言う。写真5:1939年7月、ノース・キャロライナ州オリーヴ•ヒルの近隣で13歳の娘と一緒にサツマイモの苗を植える小作人。「娘の父親は、彼女を学校へ行かせたいと願っている」とラングは記す。
(ドロテア・ラング/ライブラリー・オヴ・コングレス)
仕事人生を通して大恐慌を記録し続けたラングは、映像に詳しいキャプションを付け加える努力していた。日々の記録に、稼ぎはどれくらいか、食べ物に幾ら支払っているか、子どもたちの数と年齢など、撮影した人々の関する事実を書き留めていた、とスパーンは語る。ラングはまた彼女の被写体となった人々との会話をするようにしていた、彼女のノートには、彼らとの会話からの直接引用が書き込まれていた。写真6:テキサス州ダラスとオースティンの間を旅する家族。「彼らは南テキサスの家や縁者を後にし、アーカンソー・デルタの綿畑で働きたいと望んでいる」とラングのノートには書かれていた。「一銭も持たない人々。食べるものも皆無、タンクには3ガロンのギャソリンだけ。父親はタイヤを修理しようとしている。3人の子供。父親は『大変だが、人生は何処から見ても大変だ』と語る。』」
(ドロテア・ラング/ライブラリー・オヴ・コングレス)
ラングはかつて彼女のフィールドワークの「価値の半分」はこれらのキャプションにあると書いていた。だが彼女の映像が更に広範囲に配布されるようになると、これらのメモ抜きで公開された - ゴードンによると、この状況はラングを「生涯を通じて立腹させた」という。
そうであってもラングは、写真がそれら自体の強力なヴィジュアル言語を語る力を持つことを良く理解していた。彼女は「どの国もヴィジュアル的に自国を仔細に検証したことは無い。。。もし人々が自分自身をあえて見つめる事が出きると考えられれば、何を産み出すことができるのか、私には判る」と書いていた。
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